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「『競争しない戦略』という本を読んだので備忘録として」


 お世話になります。孫平です。




 先日、私が好きな植物学者・農学博士である稲垣栄洋先生の『競争「しない」戦略』という、弱い存在である雑草の生存戦略に関する本を読んだので、個人的におもしろかった点を備忘録としてメモしておきたいと思います。




 興味のない方は無視してくだされ。









『競争「しない」戦略』の備忘録



・植物の生存戦略 CSR戦略


 1970年代に、英国の生態学者 ジョン・フィリップ・グライムは、植物の生存戦略をCSR戦略という3つのタイプに分類した。



 C型は「コンペティティブ(競争型)」で、弱肉強食の自然界でも勝ち抜く力のある、競争に強い植物の生存戦略。



 S型は「ストレストレラント(ストレス耐性型)」で、普通の植物が生存できないような過酷な環境に適応できる植物の生存戦略。代表的なのはサボテン。



 R型は「ルデラル」で、雑草がとっている生存戦略。本書ではこの「ルデラル」を深掘りして、私たち人間の生き方にも参考になる点があるのではないかと投げかけている。






・雑草の生存戦略 ルデラルな生き方とは


 雑草は、自分よりも強い植物が入ってこられないような場所、また入ってきても力を発揮できず、雑草の方が有利になれる場所を選んで生えている。



 雑草はどこにでも生えているようなイメージがあるが、よくよく考えてみると、森のような自然が豊かな場所には雑草はない。雑草が生えている場所は、空き地や道ばたなど、雑草以外の植物が生えていないような場所ばかりである。



 競争型が得意とする恵まれた環境での勝負を避け、好条件とはいえない逆境の環境に適応することで生きているのが雑草のルデラルな生き方である。



 ほとんど雨が降らないような、過酷な環境が「一定している条件」ではストレス耐性型に勝てないが、良いときもあれば悪いときもあるような、環境が「不安定な条件」ならルデラルの方が強い。そして雑草は、そんな「環境が不安定な場所」で生きることを得意とした植物なのである。



 現に、日本は高温多湿で四季の変化が激しい「不安定な環境」ではあるが、その分世界的にみても雑草が豊かな国である。ヨーロッパのように年間を通して荒涼とした地域では、きれいな草原はよく見られるが、日本のように雑草がモサモサ生えている場所はほとんどない。








・適度な攪乱


 この「不安定な環境」のことを、生態学では「攪乱(かくらん)」という。そして植物に限らず、全ての生物にとって「適度な攪乱」のときが最も生物の種類が多くなるといわれている(米国の生態学者 コネルが提唱した「中程度攪乱仮説」)。



 その理由は、適度に複雑な環境では多種多様な環境が作られ、それぞれの環境に適した多種多様な生物が生まれるからである。(乾いた土地、湿った土地、暖かい場所、寒い場所、日当たりの良い場所、日陰、斜面、平地など、多種多様な環境があれば、さまざまな生物が自分が有利に生きていける場所の選択肢が増えるため)








・ニッチ戦略


 大きなマーケットとマーケットの間の、隙間にある小さなマーケットを指すマーケティング用語に「ニッチ」という言葉があるが、これはもともと生物学で使われていた言葉である。



 ニッチとは、装飾品を飾るために寺院などの壁面に設けたくぼみを意味するものだが、やがてそれが転じて、生物学の文野で「ある生物種が生息する範囲の環境」を指す言葉として使われるようになり、「生態的地位」とも呼ばれている。



 一つのくぼみに一つの装飾品しか飾れないように、一つのニッチには一つの生物種しか住むことができないとされている。



 それではなぜ地球にはこんなにたくさんの生物がいるのかと疑問に思うかもしれないが、全ての生物は他の生物とニッチが被らないよう、少しずつニッチをずらしているのである。現存している生物種なら、どれ一つとして他の生物種とニッチが被っていることはない。厳密にいえば、遥か昔はニッチが被っていた生物種もいただろうが、どちらか一方がその生存競争に敗れ、勝った生物種がそのニッチで脈々と子孫を残し続けてきたのである。



 ニッチが被っていないことの例を挙げてみると、サバンナにいるシマウマは草の先端の穂を食べる、ヌーはその下の茎や葉を食べる、トムソンガゼルはさらに背丈の低い草を食べ、キリンは高い木の葉を食べる。同じサバンナの草食動物でも食べる部分が異なり、食べ物におけるニッチをずらしているのである。



 雑草に話を戻すと、雑草は「逆境」「変化」「複雑さ」を好み、それに適応可能なルデラルという生存戦略を駆使して繁栄してきた。しかしそれは、そのようなルデラルが好む条件が環境を細分化し、多くのニッチを生み出してきたことと無関係ではない。



 雑草はどこにでも適当に生えているイメージがあるが、そうではない。田んぼのあぜ道に生えることのできる雑草は決まっている。同様に、畑に生える雑草と畑の周囲に生える雑草は異なる。道ばたに生える雑草もあれば、公園の芝生に生える雑草もある。雑草は自分に適した場所、自分に適したニッチをしっかりと選んで生えているのである。



 自分が勝てない場所で、歯を食いしばって必死に頑張ることだけが雑草魂ではない。人間である私たちは時としてそのような態度を美徳だと見なすが、雑草にとってはたった1回の負けでも、それは自分の「死」を意味し、「子孫を残せない」ことを意味するのである。頑張っていればいつかは…などと悠長なことは言ってられないし、負けたらもう二度とチャンスはないのである。だからこそ、弱くても自分が勝てる場所、もっといえば争う者が入ってこない場所、競争しなくても生き残れる場所をしっかり選んでいるのであり、これこそがルデラルな生き方なのである。









・木と草ではどちらがより進化した生物か?


 大きくて頑丈で長生きする「木」の方がより進化した生物だと思うかもしれないが、正解は「草」である。「草」は「木」よりも後に誕生した、新しいタイプの生物なのである。



 ではなぜ「草」のような弱々しい生物が生まれたのか。その理由は、「環境の変化」にある。



 草が誕生する前の、木しかなかった時代は、環境が安定していたと考えられている。しかし、地球の環境変化により気温や気候が不安定な時代が到来すると、それに耐えられない木が続出した。そこに現れたのが、草というニュータイプの生物である。



 草は木と違い寿命が極端に短くサイズも極端に小さいが、それは世代交代のスピードが速く、次に残せる子孫の数を大幅に増やせることを意味する。そして不安定な環境では、世代交代の速さと多さは強力な武器になる。なぜなら、短い期間で様々な遺伝子をもつ子孫を大量に残していけば、不安定な環境でも生き残り、次の世代に命を繋げられる確率が高まるからである。



 木の方は、寿命が長くサイズも大きいがその分世代交代までの期間も長く、残せる子孫の量も草に比べたらはるかに少ない。もし、ある木が子孫を残す前の成長途中になんらかの環境変化によって死んでしまったら、その木は子孫を残せなかったことになる。



 また、草に比べて残せる子孫の量が少ないということは、残せる子孫の遺伝子のタイプが少ないということでもある。遺伝子のタイプが少ないということは、それだけ環境の変化に弱く、息絶えてしまう可能性が高いということである。例えば、ある草は1,000タイプの遺伝子をもつ子孫を残し、ある木は100タイプの遺伝子をもつ子孫を残した。しかしあるとき、99タイプの遺伝子を滅ぼす環境変化が起こった。この場合、草の子孫は901個生き延びるのに対し、木の子孫は1個しか生き延びないことになる。



 長い歴史の中で、このような環境変化の脅威に何度も何度も晒されることになると、どちらがより子孫を残せる生物であるかは言うまでもない。ことは先ほどの例え話のように単純ではないが、おおよそ草と木には生物としてそのような違いがあり、環境変化にも適応し子孫を残していくという観点から見ると、草の方がより進化した生物ということになるのである。(ちなみに、木も現在まで繁栄している生物であることは言うまでもなく、草よりも木が劣っているとかそういう話にはならない。先ほどもあったように、草は草のニッチで、木は木のニッチで繁栄しているのであり、それぞれがそれぞれの場所での勝者なのである。)



 ちなみに、米国の雑草生態学者ベーカーは、1974年に「理想的な雑草のコンセプト」というものを発表している。その中では、「成長が早く、すみやかに開花に至ることができる」ことと、「不良環境下でも幾らかの種子を生産することができる」ことを理想的な条件として挙げた。さらに、「好適な条件では、生育可能な限り、長期にわたって種子を生産する」という項目も挙げられている。



 つまり雑草は、どんな逆境の中でも必ず花を咲かせタネをつけて、次の世代に命のバトンをつないでいく。そして、一つ花を咲かせたらもう一つ花を咲かせる。二つ目の花を咲かせたら次の花を咲かせる。こうして、自分の命ある限り何度も何度も次の世代へと命をつないでいくのである。










・雑草を育てるのは難しい


 雑草のタネを蒔いて育てたことはあるだろうか。野菜や花であれば、適切な時期にタネを蒔き適切な水さえあげておけば、ある程度は勝手に育つ。しかし、雑草は待てど暮らせど芽が出てこない。実は雑草には、土の中でじっと芽を出すタイミングを見計らう「休眠性」という性質がある。



 ルデラルの生存戦略を思い出してほしい。そう、それは「競争しない戦略」「戦わない戦略」であった。弱い植物である雑草にとって、自分が芽を出したときに、周りに競争相手となる強い植物がいないということは何より重要である。もし芽を出したときに、すでに強くて大きな植物たちが周りに生い茂っていたら、その雑草は太陽の光を浴びることができず枯れてしまうことだろう。



 そこで雑草には「光発芽性」という、タネに光が当たることによって芽を出す性質が備わっている。光が地面まで差し込むということは、周りに大きな植物がいないということを意味している。そのため、光が当たると芽を出しはじめるのである。



 そう考えると、私たち人間は雑草を取り除くために草むしりをするが、それは新たな雑草の芽生えを手助けしているともいえる。恐るべき雑草魂。










・雑草はタネにも抜かりがない


 ルデラルな戦略をとる雑草が生きる環境は、「不安定」であった。光を浴びて芽を出したはいいが、思わぬ環境の変化で全滅の危機におちいる可能性も十分ありうる。



 そんな状況にも対応できるよう、雑草には「不斉一発生」という性質も備わっている。雑草のタネは条件が整っても一斉に芽を出すことはせず、少しずつタイミングをズラしながらダラダラと芽を出してくるのである。これなら少なくとも、一瞬で全滅してしまうことはない。



 発芽だけではなく、雑草のタネにも一つ一つにさまざまな特性がある。寒さに強いもの、乾燥に強いもの、病気に強いものなど、強みも個性もバラバラな子孫を残しているのである。そりゃ雑草がなくならんわけだ。










・踏まれても立ち上がらない


 オオバコはよく踏まれる雑草の代表格であるが、オオバコの葉はとても柔らかく、踏まれたダメージを軽減するようにできている。しかも、葉の中には丈夫な筋があるため、踏みにじられたとしてもなかなかちぎれない。オオバコに限らず、よく踏まれるところに生える雑草は、柔らかさと硬さを併せ持った構造をしている



 また、歩道やグラウンドなど、よく踏まれるような場所に生えている雑草は、どれもぺったりと地面に張りついている。もし踏まれても立ち上がり上に伸びていこうとすれば、次に踏まれたときに茎が折れたり傷付いたりする危険性がある。そのため、最初から地面に伏せて、もし踏まれてもダメージを最小限におさえているのである。



 タンポポは通常茎を伸ばして花を咲かせるが、何度か踏まれて刺激を受けると、茎を横に伸ばして地面に近いところに花を咲かせるようになり、踏まれたときのダメージを軽減しようとする。










・冬眠せずに夏眠する


 先ほどのタンポポだが、日本の在来種である日本タンポポは、春に花を咲かせるとあろうことか夏には自分から枯れてしまう。一年で一番光合成ができる夏に、なぜそのようなことをするのか。



 夏のような好条件では、多くの植物が成長してくる。つまり競争が激化するのである。弱い雑草である日本タンポポは、そのような競争の激しい季節を自ら避け、多くの植物が枯れて眠りにつく冬に再び葉を出す。冬の光は夏に比べて弱々しいが、それでも冬の間じっと我慢してせっせと光合成を続ける。そして、他の植物たちがやっと眠りから起き始める春の早い時期に、待ってましたと言わんばかりに花を咲かせるのである。ライバルのいない時期に花を咲かせてタネを残す、弱い雑草の見事なルデラルである。(春のはじめは花粉を運んでくれる昆虫の数も少ないが、他に花を咲かせているライバルも少ないため、ほぼ昆虫を独占できるというメリットもある。)









・根っこは苦しいときにこそ伸びる


 日本タンポポのように、夏眠をして、過酷な環境である冬から活動をはじめる小さな雑草は数多くある。



 彼らは、冬の光で光合成した栄養分を、葉っぱや茎の成長には使わない。寒くて強い風が吹き、乾燥している冬の地上で成長するのは得策ではない。その代わり、冬の間はひたすら地中の奥深くに根を伸ばし、春に花を咲かせるためのエネルギーを蓄えているのである。



 水栽培されるヒヤシンスなどは、短い根が出ているだけで、根っこはあまり伸びていないし、ひげ根のような細かい根はほとんど生えていない。常に水が十分にある恵まれた条件では、必要以上に根を伸ばす必要がないのである。



 逆に、水がないところでは、植物の根は水を求めてグッと深く伸びる。つまり、根が成長するのは恵まれたときではなく、苦しいときなのである。



 日本語には、「根気」「根性」「根本」など、人の本質を表す言葉に「根」という字がよく使われている。四季の変化が激しく、多種多様な植物や雑草があちこちに生え、昔から自然と共生する文化のあるこの日本という国で、そのような言葉が数多くあるのは単なる偶然ではない気がする。(ヨーロッパでは、自然は人間と対立するもの、人間が支配するものだと考えられている。「雑草魂」という言葉は、日本でしか通用しない。)




 最後に、相田みつを先生の詩の中で、私が好きなものを載せておきたい。





 

いのちの根


なみだをこらえて

かなしみにたえるとき

ぐちをいわずに

くるしみにたえるとき

いいわけをしないで

だまって批判にたえるとき

いかりをおさえて

じっと屈辱にたえるとき


あなたの眼のいろがふかくなり

いのちの根がふかくなる

 






【参考文献】

稲垣栄洋『競争「しない」戦略』2022年(扶桑社)






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